僕もしょっちゅうそう思ってしまっては反省するのですが、差別されたという訴えは「わがまま」に見えやすいです。
これは考えてみれば当たり前のことで、被差別体験というのは、(それが運動とかによって大規模に認知されていない限り)基本的に「個人的」な体験だからです。
最大多数の最大幸福というような観点から見れば、差別はすべて正当化されます。なぜなら、差別は(その場における)多数派によって少数派に対してされるものだからです。この場合、「多数」というのは単に数が多いことだけでなく(それも含みますが)より大きな力を持つ、というようなことでもあります。
もし、あなたがマイノリティでなければ、そもそも差別されることはないでしょう。そして、あなたがマイノリティ(少数者)である限り、あなたの差別体験は、「みんなの利益になるのだから、あなたさえ我慢すれば済むこと」だといわれるようなものに自動的になります。
だから、多数派の視点を内在化した人(我々の大多数はそうです)からみると、差別への抗議はつねに「個人のわがまま」であり「常識的に言って、やりすぎ」であることになります(続きます)